昭和五十四年五月二十六日 朝の御理解
御理解第二節 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るもの は神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
みてると、言う事がないと、言う事は限りがないと言う事です、ね。信心をすれば誰でもが神徳が受けられる。だから、その神徳と言うても、ね。なら一から百までの御神徳があるとするなら、ね、一つ受ける人、二つ受ける人、十も二十も言うなら、百も受ける人、だから信心をすれば、ま、一応誰でも、御神徳がうけられる。けれどもその、御神徳と言うてもお役に立つ、と言うか自分を支える、と言うか、の、言うならばお徳を受けなければ、大した役には立たんと言う事になる、ね。
ま、今日私は、信心すれば誰でもと、言われるから誰でも受けられる、と、けどもまあ、その御理解を少し受けたから、と言うてそれが本当のお役に立たない。たとえば、今日、私、御神前で頂いた事は『力と技』と言う事を頂いたんですけれどね。力と技、言うならばお相撲さんでもそうです。力だけではいかん。やっぱ技がみがかなければ、と言うても、もう痩せ切れておって力が出るはずがありません。ですからやはり、まず自分が肥えなければならない、太らなければならない。そうして技を研かなければならない。そこに言うならば横綱、大関と言うようなそれを徳と申しますならば、徳も受けられる、と言う事になります。
一応信心すれば誰でも、徳が受けられると言われるから、その徳が受けられるとしてです。その徳もやはり、ま、天地が自由になる程しの徳と言われたり、一人でに物が出来るようなおかげとも言われる。人間の幸せの条件のすべてが足ろうてくる程しの御神徳、ね。
まあ、相撲取りになった、と言うだけではでけん。ためにはいよいよ肥え、太らなきゃならん。そして一生懸命その力とその技とを研いていかなければならない、ね。ですから最近言われます、ね、も、とにかく有りがたいで受けさえいけばよい、も、一切を有りがたい、有りがたい出受けていけばよい。なるほどそうでありましょうが、んなら有り難い、有り難いで受けていったとして、ま、肥え太ったといたします。けれども、その技が出来ませんと、その力の弱い者にでも、ころっ、と負ける、と言う事になる。
そこで、なら、これも最近言われる、コントロールと言う事が言われる、ね、その、言うならコントロールこそ一つの技だ技術だと、こう思うのです。ね。
例えばお粗末、御無礼と思っておった事ですら、こちらの心次第では、それがコントロール出来ると有り難いものも、本当にお恵み、御恩恵として受ける事ができる、とこう言う、ね。その辺のところがです、んならそのコントロールすると言うか、自分の心の中に、有り難いと言う心の状態が開けて来る。だからそれは、まあ、一つの信心を頂かなければ、頂けない、一つの安らぎといったようなものであろうけれども、それが、安らぎが何かの拍子にまた破れてしまう、といったような程度のものではなくて、それが確信に満ちた安心でなからなければならない。所謂、自分でコントロールして有り難い答えを出した、と言うてもその少しでもそれに不安があるようであっては本当のコントロールとは言えない。本当のコントロール、答え、有り難いと言うところには安心が必ず、伴うておらねばならない。と言うような完璧なものを目指していくと言う事。最近言われる、コントロール。有り難く頂いていけさえすれば良いと言うような生き方もです、結局はその本当に真に有り難い、と言う心が生まれてくる。安心が生まれてくる。と言うおかげを頂くためには、もう結局は信心は日々の改まりが第一で蟻、信心は本心の玉を研くもの、と言うここに取り組んでおらなければ、本当のコントロールは出てこないし、また本当の喜びと言うものは生まれてこない。これを抜きにしてのとにかく、金光様の信心は有り難いで受けていけさえすればよい、と言うだけではいけない、と言う事。本当の有り難いにはならない。本当に有り難い、どんな場合であっても有り難いと言う、安心が生まれてくる。と言うようなおかげをいよいよ頂こうと言うことになってきて、そこにハタと行き詰まるものはです。やっぱり本心の玉を研く事に精進しておらなければ、日々の改まりに、取り組んでおっての有り難いで受けていくでありコントロールである。と言う事に改めて気付かせて頂です、ね。
もう、それこそ一切を、ね、電信柱の高いのも、郵便ポストの赤いにも、みんな私が悪いのよ。といったような意味においての有り難いと、いったようなのものではいけないね。その、本当の意味においてお徳になる、ね。これはやはり、力と技が必要である、ね。力と技が頂けるために、まず自分が肥え太らせて頂かなければならない。そこでなら肥えるためには、太るためには、と言う精進がいるわけ、ね。例えば食物でもね、好き嫌いをしたんでは、やはり偏食になっては本当の力にならない。それこそ何でも美味しく、頂く、と言うような、ね、頂き方をして初めて、食物が血にも肉にもなってくるんです。
私どもの周辺に起きてくる様々の問題でもです。好き嫌いをしちゃならない。それはもう、自分の上に、自分の前に流れ着いて来たもの、自分のまえに現れて来たもの、それは神様が、ね、これを食べれば力になる。と言うてござるのだ、と思うて受けていく、と言う稽古。合掌して受けていくと言う稽古。それをまあ、ここでは成り行きを尊ぶ、大切にすると言うふうに言うわけね。そう言う生き方から必ず、肥え、太ってくる、ね。それに一生懸命の言うならば稽古によって、力はいよいよついてくる。痩せ切れておって力を出そうと言うのはこれは、無理な話。まず、肥え太る事から先、そしてそれの一生懸命な、恵子、それに力が付く。ならちーからだけでも、いかん。それから技である。いままで過去、数十年合楽で言われて来た、そういう、間、天の心、地の心と言うような心を自分の心として、と言う限りなく美しうなるね。限りなく、それこそ黙って受けていこう、と言う辛抱力を作る。と言うそう言う生き方が本当にできての、一切が有り難いで受ける、であり、一切がどういう場合であっても、自分のコントロール一つによって、所謂、罪悪感を感じておった。その罪悪は実は御恩恵であった。めぐりと思っておったのは、御親愛であった。と言うふうにですその有り難い答えを、出していく事が出来る。けども今まで言ってきた信心は、も、結局は本心の玉を研くものであち、日々の改まりが第一と言う、ここを踏んまえての有り難いでありコントロールでなきゃならない。
ここ四、五日いうて来た事をです、ね、何かそう言うふうに申してまいりましたら、なら、とにかく自分の心を十、自在にコントロールして、する事だけに焦点を置くと言う事にしたら、これは、決して本当のコントロールにはならない。所謂、安心とか、喜びとかが伴うて来ない。只、自分の心をごまかしておるのにすぎない。言うならばドライに、只割り切ったと言うだけにすぎない。ね、これではだめだと言う事。有り難い、有り難いと言うて、ま、有り難いで受けていくと言う事は、それはそれこそ、有り難いけれども、ね。それとても研かれて、改まられた日々の中から、合掌して受ける、と言う喜びで受けると言う。でなからなければ、本当の意味においての御神徳、言うならば神も喜び、氏子も喜び、私共も喜び、と言う所謂、人間の幸せの条件が、全てが足ろうてくる。しかも、これは限りなく、ね。最後にありますように、みてる、と言う事がない、と言うものです。みてる、と言う事がない。限りなく頂けていけれるお神徳を、身につけると言う事のために、やはり本心の玉を研く手立て、ね。日々に改まらせて頂く、と言う事のために教聴する。み教えを頂く。そして自分と言う者の姿をみ教えの、鏡に映して汚れとる所は落としていく。曲がっているところは真っ直ぐしていく。と言うような生き方を、まず基礎、基本にしての言うならば、有り難いで受けるであり、コントロールであると言う事をです、思うのです。そこから言うなら限りない、もう、改まる事、研く事にはもう限りがないのですから、ここの限りない信心に取り組んだら、初めて限りない御恩恵と言うか、限りないおかげに触れることが出来る。所謂、みてる、と言う事がないと言うおかげの頂けれる、御神徳でなからなければならない、と言う事ですよね。「どうぞ。」